苅田神社

御由緒

往古から波根湖の西南20余町神谷山の烏帽子端と称する 当神社に伝わる旧記から抄録すれば、苅田神社(苅田比古命、苅田比畔命、倉稲魂命の三座)は、往古から波根湖の西南二十余町、神谷山の烏帽子端と称する大巌石上に鎮座されていたことが、宇多朝の寛平六乙卯の調べで現れている式内社である。

同じく延喜式神名帳によれば、若狭國(現在の福井県)遠敷郡に十六座の神社があり、そ の内に、苅田比古命神社、苅田比吽命神社の両社があって、当神社御祭神と同神であると記され、共に五穀豊穣、農耕蓄産を掌り給う霊神である。

特に旱航霖雨等の天候不順の時や、病害虫猶籤の場合に察しては、國司郡領等が神主祠部をして祈禧祭祀を行わしめたと云う。

然るに数百年前(萬寿三年丙寅?)山崩谷裂の前古未曽有の大洪水があり、波根湖が氾濫して本殿拝殿楼門回廊及末社鳥居等々悉皆が水没漂流する所となったが、幸い本殿のみ苅田川口の大柳樹に寄り着いて残っていた。

その時神璽筥三体の内一体が流失してしまった。

神主祠部らは残りの二体を奉持して、神谷山の麓に遷して奉斎した。其の後代々神主が奉拝する処、現在も尚神璽筥に当時の泥土が色濃く残っている。

又当社から苅田川を隔て、東一町許りに神主山と云う丘陵がある。これが神主祠官らの住所跡である。

又旧社地烏帽子端の東六町余に瀧があり、神の渫布として村民の聖地である。これ即ち苅田川の水源である。 明治五年十二月村社に列せられた。

大元神社

大元神社(國常立命)は往古から安濃郡波根西村柳瀬三〇番地に部落の守護神として鎮座した村社である。

安永年中、大森代官河崎市之進の伯父河崎休宅(波根湖治水事業の推進者)は当社への尊信篤く、社殿の寄進や祭日を確定して祭事を盛んならしめた。

其の後、許可を得て明治四十年四月苅田神社へ合併。

大元神社(國常立命、倉稲魂命)は往古から安濃郡波根西村久手浦椀山の西に鎮座され慶長八年の検地にも見えている。

延享の頃薩摩屋某の願出で、椀山々頂へ遷座したが、当浦一円に崇りがあり、安永八亥の四月旧址に戻した。

然し海風烈しく社殿の損壊が甚しかった為、浦人 ら社地換を願い出で、明治十一年に仝村大字久手一九四三番地外二筆に移転し、更らに明治四十年四月当苅田神社へ合併合霊した。

然しながら当社の境内地たる神谷山麓(仝村字上ゲニ六九二番地)は山間避地で、且つ極めて湿潤であった為、社址移転の議が起り、認可を得た上昭和三年四月現在地へ遷座した。明治四十三年十月十五日神饌幣帛料供進神社に指定。

神社概要

神社名)苅田神社(かりたじんじゃ)
鎮座地大田市久手町波根西1942番地2
主祭神苅田彦命

苅田姫命

倉稲魂命

国常立神
御神徳厄除け・憑きもの祓い・安産祈願・商売繁盛・五穀豊穣・学業成就
例祭日4月15日
駐車場の有無5台程度
最寄りの駅・バス停等山陰本線久手駅
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